Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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町屋1




:《超-訓練都市》―――線、数、痛みの狭間で
【《若い娘=X》の残された手書きのメモ】
 『バカげた考えって、とってもウキウキ楽しい気持ちにしてくれるんだけど、時々わけ
がわかんなくなるほど苦しめるの。なんだか謎めいていて、だから好きだなんて人には言
えないけど、やっぱりやめられないのかしら。もうほとんどビヨ-キ。(ウ・フ・フ。)』

【来るべき《超-訓練都市》――もう一つの残された手書きのメモ】

『私は一人部屋にいて、この胸に違和感を感じている。それが始まったのはいつ頃から
だろうか?もうずっと続いているのだが。しばしばこの感じは強くなり、痛みになる。耐
え難い。変。おかしい。何がそこでうろついているのか? 一体なぜこんなことが……。』

〈私〉はこう書かれた一枚の紙切れを発見し、驚きとともに叫ぶ。
『一体誰が書いたのか? ……〈私〉だろうか?! 〈私〉はまさに今こうした経験を
している。……だが本当に〈私〉が? (〈私〉が今ここにいるのかも知れない誰かなのだ
としても、その誰かは……)』
次に〈私〉は、その紙の上に様々な線を引き、簡単な計算(せいぜい一桁の足し算だ)
をする。〈私〉は再び声をあげ、何とかその声を聞こうとする。
『今ここでこの手を動かし、こうして叫んでいるのは確かに〈私〉ではないのか? …
…いや、違う! (〈私〉が今ここにいるのかも知れない誰かなのだとしても、その誰かは
……)』

管理回路。そこでは、何でもかまわないから、暗黙の内に『〈私〉が、〈私〉として認め
るものにおいて、今〈Xというもの〉、あるいは一般にXと呼ばれるもの(例えば〈痛み〉)
を感じる』という《我々の経験の形式》が取引される。だが、そもそもそんな取引が必要
なのか? そして誰にとって?
 (白い壁を通して、〈外〉からの声が聞こえてくる。)
 『――少なくとも、今ここにいるかもしれない誰かが〈私〉であることに保険を掛けて
おくことが、ごく当たり前な人間へとその誰かを訓練するために必要なのです。(もちろん
その場合の一切の手続きは、安心して〈我々〉に任せていただけるものと信じています…
…。)  ――バカげている。必要ない!――しかし、もしどんな場合であってもその必要
がないとおっしゃるのでしたら、あなたにとって、例えば先ほどの経験のどこがあなたの
ささやかな安らぎをかき乱すことになるのでしょうか?(あなたはなぜかひどく不安と恐
れにおののいていたようでしたが。) ……ですからその場合、あなたはもはや、あのなつ
かしの経験の安らぎについて語ることさえできなくなるのです。言い換えれば、あなたは
語るということ、すなわち人生最大の快楽と残酷を失いました。従って、意外かも知れま
せんが、まさにあなたこそ、ここ(むろんそこはあなた以外誰一人いない部屋です)で内
密に行われた〈我々〉の審査手続きに合格したのです!  ――だが、一体誰がそのこと
を語るのか? そのことを語れるのは誰なのか? いや、むしろこう言おう。お前は一体
誰なんだ!』

(今ここにいるのかも知れない誰かの深い沈黙。)



【浜辺のアトリエ―――あの奇跡/軌跡のテキスト、すなわち『純粋理性批判』(以後KV
とする)から沈黙と光と闇とともに流れ出た迷宮との始まりも終わりもないダンスの誕生
になぜか立ち会って……】

『〈私〉が実際に……を経験していること』、このことについて一体何が語れるのだろう
か? 言うまでもなく、〈我々〉はすでに様々な経験について、様々な形で語り合っている。
だが、この問いを軸にしてKVが描くであろう布置を浮き彫りにするとき、そこに一つの
迷宮が描かれる。この迷宮は、《まさにこの私の経験》というカンヴァスを一体どの様に描
き出すのだろうか? 
 そこでまず、デッサンを構成する〈線〉が探求の対象となる。この〈線〉を見逃すこと
は決してできない。つまり、このカンヴァスの上にちりばめられる多様なものの戯れが〈線〉
とともに織り成す布置を追わなければならないのだ。もし〈私〉が独自の技法を模索する
画家であるならば、例外なく、描くことにおける思考の運動へと眼差しを向け変えつつ、
恐らく次のように問うだろう。

 『この夏の日差しの眩しさと暑さ、そしてその強烈な光がもたらす肌を刺す痛み………
絶えず繰り返される激しい海鳴りの音………〈私〉が今カンヴァスの上に引くこの線は、
どの様にしてこれらすべてとともに《一つの経験》を織り成すのか?』

(追憶の狭間で、光と波と砂が、やがてその表情を互いに消し始めた。この光景に、〈私〉
はいつか出逢ったことがあるようだ。そしてまたいつか、〈私〉はこの光景に出逢うことだ
ろう。〈私〉は再び歩き出す。しばらく歩いた後で、〈私〉は立ち止まった。眼を閉じる。
あの〈外〉からの声が、〈私〉の傍らを通り過ぎていく。耳を澄ます。だが、それがどこな
のかは分からない。それがどこを通り過ぎていくのかが。……ふと気づくと、浜辺の上を
横切っていく〈私〉の影は、いつしか黄昏の光と溶け合う微細な波に洗われ始めている。
浜辺のアトリエは、こうして永遠に回帰する迷宮へと静かに流れ込んでいく。)

【迷宮の提示】
《内包量》とは、「ただ一つのものとしてのみ把握され、その〈不在=ゼロ〉へと次第に
近づいていくプロセスにおいてのみ、その様々な大きさが思い描ける(あるいは感じられ
る)ような量」のことである。この表現の不可視の中枢に、〈触発〉というプリズムが組み
込まれることになる。さて、《瞬間における触発》とともに、〈感覚〉と呼ばれるものが与
えられる。つまり、「ただ感覚だけを把握することは、ただ一瞬間だけを占める」のだ。内
包量として認識されるのは、この触発の〈強さ〉である。《まさにこの私の経験》は、この
内包量の認識を必ず含んでいるはずだ。とは言え、この〈強さ〉は、一体どの様にして知
られる(認識される)のだろうか? そもそも、〈痛みの強さ〉を知ることができるのだろ
うか? 〈私〉は痛みという出来事が生まれた瞬間を知らない。(傍らで、そっとささやく
声がする。「痛みというもの、それは〈出来事〉ではない。」)
ところで、KVによれば、すべての量は《連続量》である。つまり、連続性という性質
を持つ。量の連続性とは、「そのどんな部分も最小ではあり得ない」という性質のことであ
る。よって、〈最も小さな痛み〉はあり得ない。たとえどの様な〈痛さ〉であっても、より
微少な〈痛さ〉があり得ることになる。よって《瞬間における触発》は、ある〈質〉とし
て相互に無際限に連続する強さを持つことになる。従って例えば、
【〈痛み〉の系列:〈痛さ〉-a,〈痛さ〉-b,〈痛さ〉-c, -d, -e, ………… 】
いわば〈触発〉は、量と質という無数の断片へと引き裂かれなければならないのだ。こ
の触発は、あくまでも瞬間における出来事である。だが、その〈強さの認識〉は、その都
度の瞬間を超えた連続的なプロセスを前提する。ここに深い裂け目がある。というのも、
KVによれば、内包量の認識は、その都度の《瞬間における触発》から感覚が消え失せて
しまうまでのあり得べき移行プロセスにおいてのみ生まれるとされているからである。言
い換えれば、内包量の認識は、「感覚の〈不在=ゼロ〉」からその都度の《瞬間における触
発》によって与えられるはずのこの内包量への、そしてこの同じ内包量からその〈消失=
ゼロ〉への「あり得べき連続的な移行のプロセスにおいてのみ」把握され得る。つまり〈こ
の痛み〉の強さは、〈まさにこの痛み〉が与えられるはずの瞬間に位置しない限りでのみ知
られ得ることになる。ところで〈痛み〉とは、《我々によって痛みと呼ばれるもの》である。
そこでこの事態を、次のように言い換えることができる。

 『《瞬間における触発》という《出来事=場面》はすべて、それが〈何か他のもの〉へと
移りゆく限りでのみ、〈まさにこのX〉の認識になり得る。』

 だとすれば、なんであれ内包量の認識は、いかなる瞬間における感覚の認識でもあり得
ない。つまり何ものの認識でもあり得ない。従って、結局のところ、《内包量の知》という
ものはあり得ない。こうして〈痛さ〉、すなわち〈まさにこの痛み〉がどんな場合であって
もあり得ないのであれば、〈痛みというもの〉も、そして〈まさにこの感じ〉というものも
すべてどこかへ消えてしまう。言い換えれば、《我々によって感覚と呼ばれるもの》が
〈我々〉のもとを去ってしまうのである。よって、《我々の経験の認識》に合致した『〈私〉
が、〈私〉として認めるものにおいて、今〈まさにこの痛み〉を感じる!』という《まさに
この私の経験》、つまり〈まさにこの痛み〉の認識が、その起源であるはずの《瞬間におけ
る触発》という《出来事=場面》と出逢うことはない。すなわち、
〈知〉が、〈出来事〉と出逢うことは決してないのだ。
 (再び、〈外〉からのささやき声。――〈我々〉によって〈痛み〉と呼ばれるもの、それ
は〈出来事〉ではない。それは何ものでもない。〈何〉ものでもないもの、つまり〈ゼロ=
不在〉[=《あるもの=X》]……。)
(どこからの声なのかはともかく、もう一つのごくありふれた声。) 「だがそうは言っ
てもねえ〈君〉、〈この痛み〉はどうしても生まれてしまうでしょうが。違うかね? (こ
のことを疑うということはどういうことなのか、それを〈君〉という人は分かっているの
か……。〈君〉聞いてんの?)そうである以上ね、一体どうして〈あり得ない〉なんてとん
でもないことが言えるの〈君〉は? 考えてもみて欲しいんだがね、もし誰かに『ガラス
の破片で手を切って「痛い!」と叫んで〈何〉が「おかしい」と言うのかね、〈君という人〉
は。〈私〉にとってはあえて口にするのもばかばかしいことなんだが、〈この胸〉に〈私〉
が〈感じる〉この〈痛み〉は、〈感じ〉であって〈知〉なんていうわけの分からない軽薄な
流行語ではないんだよ、〈君〉(という人はまったく〈何〉という……)。要するにね、決し
て〈あり得ない〉なんていうことは〈あり得ない〉わけだよ〈君〉!!』とあえて
語られたとしたら
一体〈君〉は〈何〉をどうするつもりなの〈君〉(という人は一体……)は? ……聞いて
んの、〈君〉(はどうしてそう……、あれなんだろうね全く〈君〉……以下ほとんど無限に
続く)。」 (実際、〈彼〉はいつもこんな風にしてこの〈私〉に訴え続けているのだ。) 
それ故、〈まさにこの痛み〉がそこで造型されるカンヴァスを、(やや古風な言い方をす
れば)為し得る限り、探し出さなければならない。

【迷宮を包み込むこと】
《瞬間における触発》という迷宮を、ある連続的なプロセスへと包み込むこと。その〈包
み込み〉によって、この触発は〈何か他のもの〉へと変換されるという仮定を立ててみる
こともできる。この〈何か他のもの〉は、触発そのものとは異なり、展開され分布を持つ
はずである。確かに〈痛み〉は、様々な強さを様々な時と場所において持っている。〈我々〉
がお互いに語り合うのは、この展開であり、分布である。〈我々〉は決して、《瞬間におけ
る触発》について語り合わない。それについて語ることは、〈我々〉の間では現実的ではな
いのだ。〈我々〉の言語は決して出来事そのものとは出逢いはしない。だがあえて問うこと
になるが、〈痛み〉の持つ様々な強さ、時、場所とはそもそも何なのか? 例えば、『誰か
がガラスの破片で手を切ったとしたら、まさに〈その〉時であり、〈その〉場所であり、〈そ
の〉痛みの強さ』なのか? (ここで〈外〉からのはっきりとした声。――何ならその誰
かに聞いてみたまえ。その誰かと接触し、声をかけてみるのだ。何を怖がっているのだ。
ほら、すぐそこにいる! ……だが、今その誰か、つまりこの部屋にいる彼はどうも答え
る気にはなれないようだが、それも無理のないことなのだ。恐らく彼は、〈君〉に何一つ答
えはしないだろう。少なくとも今のところ、彼にはどんな答えもない。それでもなお〈君〉
は、そんなバカげた問いかけをあえて彼にする気になれるのかね? 驚くべきことに、無
理矢理彼をつかまえてでも? ――だが、もう遅い。実を言えば、彼はすでに出かけてい
て、この部屋にはいないのだ。彼を捜し出すことは決してできないだろう。賭けてもいい。
彼が〈今〉、〈どこ〉で〈何〉をしているのか結局〈私〉にも〈君〉にも分からない。しか
も、永遠にだ。ところで、〈君〉は今日一度も彼を見かけていないようだが、いやそれどこ
ろか、〈君〉は彼とかつて一度たりとも会ったことがないのであって、そもそも彼が一体誰
なのかを全く知らないわけだが、経験上〈私〉にもこれだけは言える。彼が部屋に残して
いったこのおびただしい血痕を見たまえ。今〈私〉はうかつにも血痕と言ったが、実際こ
れはもはや血痕などといった生易しいものではない。むしろ〈今〉なお流れ続ける血液で
ある! これでやっと〈君〉にも分かったと思うが、ついさっきヴィデオで『バロウズ』
を見ながら彼がそれで手を切ったナイフの切れ味は、実に素晴らしいものなのだ……!) 
 ※この〈外〉からの声の受信者による注記:この〈外〉からの声は、恐らくは占領され
た〈公会堂〉を超-微粒子ネット旧暦通称『アンチ・ヴィ-ナス=密緒どす、おおきに』
上の不在の中継地点として送信されてきたものと思われるが、残念ながら、今のところそ
の確証は全くない。
 あるいは、『〈私〉が……するまさに〈この〉時であり、〈この〉場所であり、〈この〉痛
みの強さ』なのか? (〈まさにこの手〉からこぼれ落ちる砂の流れのただなかで、〈外〉
からの声の深い沈黙と光と闇。)
 そこで、次の問いかけが生まれる。もし〈包み込み〉があり得るのならば、その条件は
何か?

【スティ-ブ・ライヒの音楽を聞きながら、クノッソスの線文字Bの傍らにたたず
む】
KVにおいて、「包み込み」が可能であるための条件は、《超越論的図式》と呼ばれてい
る。〈出来事〉との関係で、できるだけ簡潔にこの条件を見てみよう。〈我々〉は、ある出
来事を、何らかの様態=Xにおいて受け止める。例えば、ふと気づくと、いつしか、ある
魅惑的な音の流れが聞こえてくるということ、このことにおいて〈我々〉は、ある特異な
〈音の流れ〉の生成というリアルな様態=Xとして出来事を受け止めているのである。
 ところで、『〈音の流れ〉の生成という《出来事=X》がある』という〈受け止め〉は、
すでに〈包み込み〉によって生産された〈知〉である。出来事は、同時にその出来事「が
あること」の〈知〉として包み込まれている。《超越論的図式》と呼ばれるものは、この知
としての包み込みの条件なのである。
『Xは実際にある』と言う場合、出来事は「…があるということ(実在性)」というタイ
プの包み込みを受けている。すでに述べた様に、出来事そのものは、いきなり包み込まれ
ることはできない。つまりそれは、例えば〈音の流れ〉の生成という《出来事=X》とし
て受け止められることにおいて初めて〈実際にあるもの〉(実在的なもの)として同時に包
み込まれる。すなわち《超越論的図式》は、音の流れの生成という《出来事=X》と《が
あるということ》を結び付けるのである。ここでやっと、『素敵な音が聞こえる!』という
言葉が可能になり、同時に現実のものとなる。
 この様に、その都度の出来事が言語において受け止められ、包み込まれているというこ
とは、言い換えれば、〈我々〉によって共有され、使用され得る〈知〉として《言語》が成
立しているということである。この「人間の心の奥深くに隠されたア-ト」は、「組み合わ
せ文字/図案化記号」とも呼ばれる。《図式》は、太古の《絵画文字》(《絵画=文字》と
言ってもいいだろう)における絵画と文字の出逢いを実現するものでもあるのだ。

 しばらく閉じていた眼を開き、ようやく〈私〉は目覚める。いつしか始まった快い瞑想
の波間を駆け抜けていく風/言葉/笑いとともに、あの悪夢は永遠に過ぎ去ったのだ。今
こそ〈私〉には分かる。〈私〉が今、あのなつかしのスティ-ブ・ライヒを聞きながらクノ
ッソスの線文字Bの傍らにたたずんでいるのだということが。(浜辺に流れ着いた薔薇色
と瑠璃色の二色織りシルク・ムカデス-ツの冷たい裏側で、あの〈外〉からの声が再びさ
さやく。「お前はまだ気づいていない。迷宮は近い、ということが。シルク・ムカデス-ツ
を無造作に脱ぎ捨て、迷宮の女王を追い出した飼育管理者たちの暗黒の祈祷がやがてそこ
で始まる。彼らの命運が賭けられた知られざるコントロ-ルの実験だ。装置と機械の戦い
がそこで……。」)

【消すことも、押しとどめることもできない苦痛、あるいはコントロ-ル不可能なものと
の出逢い】 ところで、《瞬間における触発》という《出来事=場面》は、そもそも何らか
の《出来事=X》として〈我々〉に与えられなければ「…があるということ(実在性)」と
いうタイプの包み込みを受け入れることができなかった。すなわち、〈包み込まれ得るも
の〉とはならなかった。もしそれが、誰も知らない物語の中の出来事(とは?)であれば、
それは決して〈包み込まれ得るもの〉ではない。この〈与えられるということ〉は、〈我々
=人間〉が持つ《直観の形式》と呼ばれるものによって可能になる。もちろんこの〈包み
込まれ得るもの〉は、まだ〈実際にあるもの〉(実在的なもの)として〈包み込まれたもの〉
ではない。従って、《超越論的図式》の働きは、《瞬間における触発》という《出来事=場
面》の包み込みのプロセスにおいて、〈我々〉の直観の形式と思考の形式(包み込みの形式)
を互いに結び付けることなのである。
 だとすれば、《超越論的図式》は、《瞬間における触発》という《出来事=場面》の包み
込みにおいて直観の形式と思考の形式をどの様に結び付けるのか? もしそれが、あらか
じめ不可能を宣告された絶望的な試みではないのだとすれば? すなわち、直観の形式を
思考の運動へと組み込むことによって、《瞬間における触発》という《出来事=場面》を《ま
さにこの痛み、音、……の経験》として受け止め、包み込まなければならないのだ。


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